使者はゆく


 小学生の頃、活字をうまく追うことができず、読書が苦痛でした。

 しかし、ある時、『ハッピーバースデー~命かがやく瞬間~』(青木和雄・吉富多美著、2005年、文芸書版)を読み切ったことで、

 読書のコツがつかめるようになったのでしょう。

 以後は父が運転する車の中で街灯の明かりの方へと書面を傾けてまで、貪るように読むようになります。

 特に、時代小説・歴史小説が好きで夢枕獏先生の『黒塚』、井上尚登先生の『T.R.Y』を初めて読んだ時の衝撃は今も胸に残っています。


 最近は、日本だけではなく、海外文学にも食指を伸ばすようになり、

 馬伯庸(マー・ボーヨン)先生著の『長安のライチ』(池田智恵(訳)、立原透耶(訳) 2026年、文芸春秋発行)を楽しみました。

 唐の玄宗皇帝が、じき、誕生日を迎える最愛の楊貴妃のために、1度摘んでしまうと3~4日で腐っていくというライチを生のまま、

 1,000kmも離れた南方・嶺南産(現在の広東省)から長安(現在の西安)に運んで来い!と命じたことから始まるミッショインポッシブルです。


 日本の映画『超高速!参勤交代』や『引っ越し大名!』に影響を受けたとあとがきに書かれており、

 その課された過酷なミッションをあの手この手で乗り越えようとする主人公である下級役人の李徳善の姿に、

 内藤政醇(『超高速!参勤交代』の主人公)や片桐春之介(『引っ越し大名!』の主人公)の影をうっすらと見てしまいます。

 広東省から西安までの距離はおおよそ1600km~1800kmあるといわれており、

 これを日本に当てはめると青森県から下関までを移動する距離に匹敵するのだとか。途方もない距離です。

 

 距離にまつわるこんな面白い史料が「香宗我部家伝証文」(東京国立博物館所蔵)の中にあります。

 織田信長・羽柴秀吉と仲違いをし、和睦も失敗した長宗我部元親は、

 天正12年(1584)頃、秀吉と対立をしていた徳川家康及び織田信雄に接近して、自分の後ろ盾になってもらうことにしました。

 ある時、何か、互いに意見をすり合わせたいことがあったのでしょう。

 家康が元親のもとへ「井上主計」という者を派遣しましたが、土佐は「遠境」のため井上は引き返し

 元親からの「御使僧」が派遣されたというのです(「天正12年4月30日づけ本多正信書状」「香宗我部家伝証文」)。


 この頃、小牧・長久手合戦の最中で、家康と秀吉軍は、尾張・美濃(岐阜・愛知)方面でにらみ合いをつづけおり、

 井上主計は、美濃から土佐へやってくる計画だったことが察せられます。


 その距離大体500km前後


 李徳善のライチ運送距離に比べれば……ですが、鍛えられた武士と言えども、土佐までの道のりは険しかったのでしょうか?

 もしくは、合戦中という非常事態下、普段より陸路や海路の取り締まりが厳しくなっており、主計はうまくそこを抜けられなかったと考えることもできます。

 その証拠に、「6月11日」付けの書状を「今日」の「8月18日」に「拝見」したと井伊直政が伝えている書状があり(「天正12年8月18日井伊直政書状」「香宗我部家伝証文」)、

 近況報告を土佐から美濃へ、美濃から土佐へ1通送るのに、片道だけで2ヶ月かかっていたということがわかります。

 

 元親から送られたという「御使僧」というのは、どこの誰であったのかはわかっていません。

 

 戦国時代、外交に僧が現れるのは割りと一般的で、

 元親は特に岡豊城麓にあった長宗我部家菩提寺の瑞応寺(現在、廃寺)と同じく、

 岡豊にあった滝本寺(現在、廃寺)の僧と親密であったことが、これまでの研究でわかっています。

 各国に同じ宗派の兄弟寺があるため、そのネットワークを利用し、国境を越え移動しやすく、検問など抜けやすかったのかもしれません。

 

 たかが、500km。されど、500km。

 

 土佐と美濃間で交わされる書状は、互いの戦況報告と羽柴秀吉という強大な共通の敵を前にした裏切りを食い止めるための腹の探り合いもかねていました。

 1通でも届かなければ、長宗我部家と徳川家との間に疑心暗鬼が生じ、関係が破綻してしまう可能性とてあったのです。

 

 この名前すら伝わっていない、「御使僧」こそが、生のライチを長安までとどけた李徳善であり、

 真の功労者と賞すべきなのかもしれません。



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