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企画展「長宗我部元親の城づくり―四国制覇に向けて―」おススメの見どころ

ただ今、当館では企画展「長宗我部元親の城づくり―四国制覇に向けて―」を開催中です。

展示内容を広く知っていただくために、チラシ・ウェブサイト・SNS、またマスコミなど外部の取材を通じて、見どころなどをお伝えしていくのも、展示担当学芸員の仕事の一つです。ここでは、それらではなかなか触れられなかったことを少しご紹介します。


企画展は、まず調査を行い、展示ストーリー・構成を練り、展示図面に落とし込み、資料借用等、そして列品作業を経てオープンへと至ります。特に展示ストーリー・構成は学芸員がこだわる部分です。しかし学芸員の思いとは裏腹に、おもわぬ視点で興味を持っていただけることがあり、それが見どころの追加になると感じています。


1 AIによる城郭想像復元イラストへの挑戦

その予期しなかった見どころとして、AIを使って作成した城郭想像復元イラストを取り上げたいと思います。新聞記者から企画展についての取材を受け、このイラストについて多くの質問を受けたことから、展示の見どころとしておすすめできるのではないか、と気づくことができました。その記者からは、展示にAIを介在させたことが先進的だと、コメントをいただきました。


城郭研究者の間では城の姿を捉えるために、よく縄張図を用います。縄張図では真上から城の平坦面(曲輪)や竪堀・横堀・堀切などの防御施設、周囲の地形なども含めて表現されますが、研究者以外の一般の方が城をイメージするには少しハードルが高いと思われます。今回の展示にあたり、城のことをわかりやすく紹介するために、最初は城の模型を作ろうと考えていました。しかし、模型製作には費用も時間もかかり過ぎます。そこで2次元ではありますが、AIを使って想像図を作成できないだろうか、との副館長松田の発案で、AIによる城郭想像復元イラスト作成に挑戦することになりました。


そのイラスト作成過程は、次のとおりです。

ベースとしたのは、やはり城の構造をよくとらえている縄張図です。そこへ地形図も重ねて、AIに読み込ませたうえで、「中世の城の想像図を作成して」等々の指示を出しました。最初に生成されたイラストはとても展示できるレベルのものではなく、例えば岡豊城のイラストでは、高知城とみまがうような白壁塗りの天守が聳えていました。また、AIが等高線を竪堀と勘違いしたのか、伝家老屋敷曲輪(標高39.4m)が詰(標高97m)より高い断崖絶壁に位置していたりで、人間のチェックが欠かせないと感じました。そこで、生成されたイラストを元に、発掘調査の成果等を根拠に、何度も修正をデザイナーに依頼し、2か月近くかけて全部で12城分が完成しました。


完成した岡豊城想像復元イラストと細部もご覧ください。詰には瓦葺きの建物が建っています。四ノ段の虎口前には巨石が並んでいます。虎口には門が建っています。虎口を抜けて四ノ段北部郭に至る途中にも巨石が見えます。四ノ段の下、北西方向には畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)が見えます。畝状空堀群は何度か行われた岡豊城の改修の中で最後の改修であったと考えられています。詰から詰下段、二ノ段と下がって、その下には四角形に近い平坦面があり、この曲輪には御殿風の立派な建物が見えます。ここは現在、当館が建っているところです。実はこの場所は発掘調査が行われておらず、確実に御殿風の建物があったとはいいきれません。しかし、元親が住まいとした場所は城内で一番広い平坦面であるこの場所である可能性が高いということで、ここに御殿風の建物を復元しました。山上の城主の住まいの例として、展示では浅井(あざい)氏の小谷城、毛利氏の郡山城もご紹介しています。



岡豊城想像復元イラスト.jpg
岡豊城想像復元イラスト

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岡豊城跡出土天正三年銘瓦 高知県立埋蔵文化財センター蔵

2 過渡期の特徴を示す岡豊城

Ⅱ章の「長宗我部の城」では、岡豊城想像復元イラストのほか、岡豊城を様々な角度からご紹介し、近年調査された、伝家老屋敷曲輪、長宗我部一族の寺(瑞応寺・ずいおうじ)跡の調査成果も盛り込みました。

岡豊城跡出土資料は、多く出品されていますが、まず注目していただきたいのが、瓦です。一押しは「天正三年銘瓦」です。江戸時代になると、城の建物に瓦が用いられるのは当たり前ですが、中世城郭に瓦が用いられるのは、まさに中世から近世への過渡期のことです。城に本格的に瓦を用いたのは、信長の安土城からといわれます。安土城の築城が始まるのは天正4年(1576)からですので、岡豊城ではそれに先駆けて天正3年頃に瓦を用いたと考えられます。


また、詰では礎石建物跡も確認されていますので、礎石の上に柱を据え、屋根には瓦を葺いた、恒常的な建物があったと考えられます。それまでの城は掘立柱の建物で、耐用年数でいえば短期間の建物でした。掘立柱の建物といえば、伊勢神宮の式年遷宮で20年に1度、社殿等を新しくしますが、神様の在わすところを常に清新に保つ意味で建て替えられ、また社殿づくりの技術を絶やさないために生み出された知恵とシステムだろうと考えられています。少し話がそれてしまいました。



岡豊城跡虎口前の巨石.jpg
岡豊城跡四ノ段虎口前の巨石

3 城から見える元親と信長のつながり

今回、私が強調したいのが、織田信長と長宗我部元親の関係が文献史料以外にも、城づくりから見えてくる、という点です。キーワードは巨石です。信長の岐阜城と元親の岡豊城の巨石の用い方にぜひ、注目してください。このお話は内堀信雄氏が11/14の講座「岐阜城と岡豊城」において詳しくお話くださる予定です。

昨年、企画展調査で岐阜城跡を訪問しましたが、山麓居館の入口部につらなる巨石の石垣、山上部では一ノ門跡に残る巨石などを内堀氏ほか岐阜市の皆様にご案内いただき、撮影してきました。内堀氏の説では、それらは岡豊城跡においてもみられ、また麓の長宗我部一族の寺跡でも認められる、とのことです。また、岐阜城の山上部と山麓部の在り方から考えると、この寺は岡豊城の迎賓館的な機能をもっていた建物と考えられる、とのことです。

岡豊城跡はこれまで何度も歩き、四ノ段虎口手前に残る大きな石についてはぼんやりと、「なぜここに大きな石があるのだろう」と思っていたのですが、今回の企画展準備で内堀氏のご論考を読み、これは信長の影響を受けて巨石が据えられた、と理解することができ、腑に落ちました。詳しくは、ぜひ展示をご覧ください。



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