四国霊場第33番札所である高知市長浜の雪蹊寺に安置されている毘沙門天立像。
制作したのは、運慶(鎌倉時代時代に活躍した伝説の天才仏師、運慶です!)の長男である湛慶で、
国の重要文化財に指定されています。
張りのある端正な顔立ちや静かな立ち姿は、多くの人を魅了しています。
実際に、展覧会には引っ張りだこで、平成28年には、日本とイタリアの国交150年を記念して、
文化庁がイタリア・ローマで開催した「日本仏像展」にもはるばる海を渡り、出陳されました。
高知県イチ、「出張の多い仏像」かもしれません。
本像の足裏にある枘(ほぞ)には、墨で書かれた造立当初に書かれた文字があり、湛慶が「法印」という僧侶としての位に就いていた時期につくられたことがわかります。
(※枘…木材などを繋ぐ際に片方の部材に作った凸の部分。もう片方に凹(枘穴)をつくりはめ込む。)
湛慶が「法印」に就いていたのは、建暦3(1213)年から亡くなる建長8(1256)年までであることや、
湛慶の現存する他作例との様式比較を踏まえたうえで、雪蹊寺の前身である高福寺が創建されたという
嘉禄元(1225)年頃に制作されたと考えられています。
実は雪蹊寺の毘沙門天立像によく似た像が四万十市に残されています。
四万十市の毘沙門天立像については、前田和男氏が『私のメモ帳』で紹介し、
その存在は知られていましたが、当館は、令和5年、神奈川県立歴史博物館の協力を得て、この像の詳細調査を行いました。
四万十市像には、のちの修理で施された彩色があるので、ちょっとわかりづらいかもしれませんが、
雪蹊寺像とよく似ています。
例えば、ポーズ。雪蹊寺像は失われている部分もありますが、右肩の位置から肩から先は上に向けていたと思われます。
そして左腕は体に寄せ、肘を前に向けて曲げています。
次に着ているもの。毘沙門天は戦いの衣装である甲冑を身に着けていますが、複雑な衣装もよく似ています。
特徴的なのは、胸のすぐ下、お腹の上を山状に通る腰ひもです。
大きさこそ、四万十市像のほうがやや小さいですが、見れば見るほど、細部までよく似た表現です。
四万十市像は雪蹊寺像を真似て、模倣して制作したと考えられます。
四万十市像の調査では、像の隙間からファイバースコープを差し込み、体内を確認しました。
すると、お腹の部分に墨で書かれた文字があることが分かりました。
その内容から、本像は「朝慶」という人物が発願し、「仏師圓海」が制作にあたり、「正安四年八月三日」に完成したことがわかりました。正安四年は1302年なので、雪蹊寺像から80年ほど経っています。また、圓海は金剛福寺の勢力下で活動した地方仏師のようです。
この二軀の毘沙門天立像の存在から、四万十市像が作られた正安4年頃には、雪蹊寺像が土佐にあり、模倣されるほど知られていたと推測できます。つまり、雪蹊寺像が高福寺の創建に合わせて造立されたという説を補強する一つの材料といえます。
700年以上もの間、それぞれの場所で大切に守り伝えられてきた仏像の歴史が「繋がっていた」と気づく瞬間は、調査でしか得られない感動であり、醍醐味です。
県内各地には、詳細調査ができていない仏像がまだまだありますので、西へ東へと調査を続けています。