城を歩く



 私は讃岐で生まれ育ちましたが、それまで近所にある天霧(あまぎり)城跡(現香川県善通寺市ほか)は眺めるもので、登るものではありませんでした。

 幼稚園生の頃、天霧城跡すぐそばの弥谷(いやだに)寺に遠足で登り、100段超ある階段が負の思い出となっていたというのもあります。

 松田直則副館長の企画展調査に加わり、生まれて初めて登った讃岐の山城たちは、これまで私が見ていた景観をいっぺんさせるものでした。

 その昔、長宗我部元親の二男を天霧城跡の主である香川信景の娘婿にし、香川家の跡取りとすることで、元親は効率よく讃岐の西側を味方に入れました。それを足かがりに、香川家と長宗我部家双方と敵対する三好家のこもる東讃岐までジリジリ迫っていきます。副館長と私は、その長宗我部軍が関係したと言われている城をいくつか踏査しました。

 ▶天霧城跡の土塁


 讃岐の山は、よく「お椀をひっくり返したようなポッコリした山」「日本昔話に出てくるような山」と言われます。見た目の穏やかさ、なだらかさとはうらはらに、実際はひどく急峻で、どんくさい私は何度も滑って転び、とうとう数か月前に買ったばかりの眼鏡を傷つけてしまいました。山頂や中腹の長宗我部軍の人たちが、ずるるると情けなく滑っていく私を見たら、恰好のカモとして投石を行い、鉄砲を上から放ったことでしょう。太腿が重たくなる激坂を上り、剥きだした大岩を見ると「自分たちだって登るのに大変だろうになんでこんなところに城をつくったのか!」と思わずあきれてしまったほどでした。

 城郭の専門家である松田副館長は、ぼやく私をわらって「それが、生きるってことだよ」と言いました。

 「みんな、死にたいわけじゃない。生きるために、生き延びるために城をつくるんだ」

 山肌を削る堀や、曲輪(くるわ)、絶えなく土砂を運び積み上げられた土塁(どるい)、皆の足場を安定させるため曲輪の側面に細かく刺さった土留め石。その一つ一つが、主人のため、自分のため、友のため、部下のため、親のため、妻のため、子のため、その当時を必死に生きた人々が残した「あと」であることを、意識しました。


 ▶天霧城跡の土留め石


 勢いづいていた元親も、やがては羽柴秀吉・秀長兄弟が派遣してくる軍勢に追われる立場となります。

 残された軍記ものや書状を丹念にめくっていくと、羽柴軍は淡路島を経由し、讃岐に上陸したとあります。屋島にも入って来たともいわれています。

 虎丸(とらまる)城跡(現香川県東かがわ市)から淡路島を見たとき、上佐山(うわさやま)城跡(現香川県高松市)の真ん前に屋島を見たとき、「長宗我部軍、怖かっただろうなあ」と思わずつぶやいてしまいました。

 山頂からその姿は丸見えで、ぞろぞろ迫りくる敵方の動きが把握できたと考えられます。


 ▶虎丸城跡からの眺望、かすんで見えにくいが淡路島が奥に見える



 ▶上佐山城跡からの眺望、目の前の台地が屋島


 この時、羽柴軍は天下の大軍です。勝てる見込みはほとんどなく、讃岐の最前線にいた長宗我部の軍勢は、元親本隊のいる阿波へ逃げていったという記録をよく見かけます。

 勝った軍勢は相手の城を壊して使えなくするという「城割」を行うことがありますが、私が登った城はいずれもそのようなあとはなく、天霧城跡を除き、そのまま廃城になったと考えられています。

 生きるため沢山の人々の手でつくられた場所から、生き延びるため散っていく人々を見送った山城たちはどのような想いだったのでしょうか。

 虎丸城、上佐山城には登山道が築かれ、そこが城跡であるということを知らないまま、のびやかに生き生きと登山を楽しんでいる人たちの沢山の笑顔に道中すれ違いました。




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